ピニンファリーナとは!自動車のデザイン・ボディー製造等は言うまでもありませんが、今日ではそれ以外にもシステムキッチン・エスプレッソマーン・ゴルフのクラブ・時計・列車など、多岐にわたるデザイナー、コンセプターとしてプロデュースを続けています。イタリア本国では、FIAT帝国と同様に知らない人はまずいない名前です。手がけた自動車名や、作品は数多く数えきれないほどである。
伊自動車大手フィアットの企業城 下町、トリノにあるピニンファリーナ本社。年間売上高で700億円(日本円換算 )。
イタリアン・カーデザインの不動の地位を確立したピニンファリーナは、'52年からフェラーリのデザインに携わる。『250SWB』、『ディーノ・ベルリネッタ』、『365GT』などを発表。フェラーリ以外にも、ランチア『アウレリアB20GT』やアルファロメオ『ジュリエッタ・スパイダー』、ジャガー『XJ-S』などそうそうたる車名が連なる。
プジョー:406クーペ、306カブリオレ(406、306、106・・・ピニンファリーナデザインであるがエンブレムはつかない。)
アルファロメオ:GTV/スパーダー、164
フィアット:クーペ、ティーポ124
ホンダ:ビート
ちなみに、ピニンファリーナのデザインした車は、日本では山梨県山中湖にあるギャラリー・アバルト美術館にて見る事ができます。
| 概 要 | カロッツェリアの名を広く世に知らしめたのは、おそらくピニンファリーナではないだろうか。フェラーリはじめ、多くの歴史的名車を送り出したピニンファリーナは、1930年に設立した老舗カロッツェリアである。 顧客の要望に合わせて、ワンオフや少量生産のクルマを作り続けてきたピニンファリーナだが、一躍世界から注目されるきっかけになったのが、'47年発表したチシタリア『202クーペ』だ。これはニューヨークの近代美術館に永久保存された初めてのクルマでもある。 ピニンファリーナ・デザインの特徴は、なんといっても流線形だろう。早くからトリノ工科大学の施設を使って空力テストを繰り返し、'72年にはイタリアでは初めて自社内にフルスケールの風洞実験施設を完成させた。ここから生まれたクルマは『テスタロッサ』など数えきれない。エモーショナルなイメージでとらえられがちなデザインだが、こうした最新テクノロジーの積極的な導入から生まれているのだ。 現在 社員数3000人 |
バッティスタ・ピニンファリーナ |
創業者。1893年11月2日生まれ。 11歳の頃から兄の経営するコーチビルダー「スタビリメンティ・ファリーナ」で働き始めた。その後、デトロイトで修業し、ピニンファリーナを創業。社名はバッティスタの愛称ピニンからつけられ、今年創業70年を迎えている。 |
セルジオ・ピニンファリーナ |
二代目社長。現在、会長 。そして現在、セルジオの息子のパオロ、アンドレアに受け継がれていくが、常に時代の先端を突き進む先駆的なデザインの精神は、色褪せることなく、常に世の自動車ファンの心を魅了していくことだろう。 ディーノ246GTのデザイン総指揮を執り最も気に入っている1台。 |
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ピニンファリーナCEO |
| ピニンファリーナの歴代・チーフデザイナーたち | |
| フランチェスコ・サルモーネ | |
| アルド・ブロヴァローネ | 1926年ヴィリアーノ・ビエレーゼ生まれ。チシタリアを起こしたピエロ・ドゥジオがアルゼンチンに渡って49年に設立した、アウトアルでボディデザインの仕事を始める。ドゥジオの息子カルロがイタリアでもう一度チシタリアを起こした際、共にイタリアへ戻るが、チシタリアは結局53年に車作りを終えてしまう。 その後ミケロッティでプロトタイプ製作に関った後ドゥジオの紹介でピニンファリーナ入社。当時チーフデザイナーのフランチェスコ・サルモーネの下に付いた。 サルモーネがカロッツェリア・アレマーノに移籍した後は自身でデザインを手がける。後にモダンフェラーリデザインの中核を担うレオナルド・フィオラバンティの師匠にあたる人物。 1988年の定年退職までピニンファリーナで務めたが、その後も96年フィアット・バルケッタをモデファイした「ストーラ・ディディカ」や「ストーラ・アバルト・モノティーポ98」をデザインしている。最もこれはストーラ氏との友情から引き受けたもので、ビジネスではないという。 1990年、トリノ・ピエモンテ・アウォードより UNA VITA PER L‘AUTOMOBILE賞(=人生をすべて自動車にささげたひと、という意味)を受賞 |
レオナルド・フィオラバンティ |
ディーノ、308、328・・・などの近年のフェラーり作品 Pininfarinaで24年働き Pininfarina's research armの事業部長、常務取締役を歴任。 現在、フィオラバンティ社 代表 |
エマヌエーヌ・ニコジア |
EMANUELE NICOSIA 1953年シチリア生まれる。Catanio Universityでの2年の工学の後に、ロンドンのROYAL COLLEGE OF ARTに入って自動のデザインのマスター学位を得る。 1979年に、 CENTRO RICERCHE PININFARINA入る。 フェラーリからアルファロメオまで そして 1981年のジャガーなど多数のプロジェクトに参加。 彼は生産のためのもの、及び進んだ調査研究としてのもの2つを開発することができるGHIAデザインセンターを計画する。 1985年までPININFARINAに戻っていましたが独立したデザイン活動を始めた。 Emanuel Nicosia was born in catania , Sicily in 1953 and his car enthusiasm grew that much making him feeling the need to live cars as enthusiast as professional. after two years of engineering at Catanio University he entered the ROYAL COLLEGE OF ART of London where he got his MAster Degree in Automotive Design then,in 1979, he entered CENTRO RICERCHE PININFARINA where he had many interesting design experience, from FERRARI to ALFA ROMEO and JAGUAR,In 1981,for just one year,he joined GHIA DESIGN CENTER where he could develop two projects,one for production and one as advanced research. He was back at PININFARINA till 1985 when he started his independent design activity by DESIGN SYSTEM , first , then follower by BEESTUDIO and,now , by DNS テスタロッサ、288GTOなど 現在、DSN=デザイン・システム・ネットワーク(スイス) http://www.dsn-network.net/ |
エンリコ・フミア |
イタリアの中でもカロッツェリア=デザイン開発会社の街として知られるトリノ出身。ブランド表現を意識したデザインを主張し、また得意とする。カロッツェリアの中でも老舗のピニンファリーナで長くチーフデザイナーを務め、91年にフィアットに移籍、2002年からは独立して自身のデザイン会社フミアデザイン・アソチャーティを主宰する。 ピニンファリーナ時代の代表作はフェラーリ各車、アルファロメオ『164』『GTV』『スパイダー』、 フィアット時代の代表作は傘下のブランドのランチア『イプシロン』、マセラティ『3200GT』など。 |
奥山清行(山形県出身)通称:ケン奥山 |
1959年生まれ 県立山形東高等学校卒 武蔵野美術大学卒業 ロスの Art Center College of Design にて学び。 デトロイトの GM に雇われ 1980 年代後半にキャリアーが本格的に始まったそうだ。 ポルシェで 911 のデザイン・プログラムに参加 GMに戻る。 「自分のデザインした車が欲しい、とのわがままからピニンファリーナに転職。私の希望で一番下のデザイナーで入り、一年強働いてましたが退社した時にはチーフ・デザイナーでした。」夢のような職をなぜ辞めたのか、と聞くとその答えは単純。「やりたいことを全てやったから。」奥山氏は、ピニンファリーナを離れる前に 3 台のフェラーリ(エンツォ:2002年、スカエリッティ:2003年)と 1 台のマセラティ(クワトロポルテ:2001年)のデザイン。Rosso、ミシュランなどとの共同開発によるシティカー、メトロクーボなど ちなみ、クラブ・イエローマジック:山崎社長談(同県出身のお友達)アレーゼ山形のショールームもpininfarinaによるものである。 poninfarina rossa のプレスキット入手スケッチ画を見る事が出来ます。こちらをクリック。(普通お目にかかれませんよ!) ※Rossoピニンファリーナ社がフェラーリのためにデザインしたコンセプトカー 。この車は、2000 年のベスト・コンセプト・カー賞を受賞 Art Center 初の外国生まれの学部長 2005年デザイン部門の最高責任者・クリエイティブ・ディレクターとして復帰。 2006年10月ピニンファリーナ社を辞め 現在: KEN OKUYAMA DESIGN 代表 Art Center College of Design客員教授、中央美術学院(中国)教授、多摩美術大学客員教授、 金沢美術工芸大学客員教授、グッドデザイン賞選考副委員長、山形カロッツェリア研究会代表 |
| ダビデ・アルカンジェリ | イタリア人 406クーペに全精力を傾け406クーペを完成させた後にピニンファリーナを辞めアウディを経てBMWに入り5シリーズ(現)をデザイン5シリーズが世に出前に急性白血病にて亡くなりました。(奥山清行著”フェラーリと鉄瓶”より)フェラーリ360モデナもデザインしている。 BMWの役員会で承認された、まさにその日に、彼は白血病によって若くしてこの世を去ったという。 |
| 1948年モデナ生まれ。1972年トリノ工芸大学卒、翌年デザイナーとしてピニンファリーナに入社。 モデル&プロトタイプ責任者などを経て、2002年に同社のR&D部門『ピニンファリーナ・リチェルカ・エ・スヴィルッポ』社長に就任した。 彼が関与した製品には、マセラティ『クアトロポルテ』、フェラーリでは『550マラネッロ』、『360モデナ』、『エンツォ』、『F430』、『612スカリエッティ』などがある。社長退任後は「ヴィラ・デステ」をはじめとする自動車エレガンス・コンクールの審査委員長や審査員などを務めていた。 2007年6月1日よりフィアット・グループの統括デザイン・ディレクターに。今年59歳。(2007.6) 2007年5月23日(フィアットプレスリリース) 従来フィアット・グループでは、傘下の各ブランドごとにデザイン責任者が置かれていたが、全体を統括するポストは不在だった。ラマチョッティは、フィアット、ランチア、アルファ・ロメオに加え、別会社のマセラーティのデザインも統括することになる。フェラーリは含まれていないが、彼の経歴からして、そちらとも連携作業が密になることが予想される。 なお、フィアットにおけるラマチョッティの新ポストはセルジオ・マルキオンネ社長の直轄。経営陣がデザインの重要性を再認識している表われとみることができる。ようやくフィアットにも、ルノー・デザインのパトリック・ルケマン、日産デザインの中村史郎のような「企業デザインの顔」が誕生することになる。 |
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| ピニンファリーナS.p.A | |
| ピニンファリーナ・ステュディ・エ・リチェルケ(100%子会社) | 自動車、電車などのデザイン/開発するいわゆる我々がよく知るピニンファリーナである。 |
| ピニンファリーナ・エクストラ(100%子会社) | 携帯電話・Gショックなどの工業デザイン及びリサーチetc |
| インダストリー・ピニンファリーナ(100%子会社) | アルファGTV/スパイダー、プジョー406クーペなどの車両を生産。 |
| ピニンファリーナ・ドイツ(100%子会社) | プロトタイプ生産部門。 |
※なお、このサイトについては書籍、インターネットetcにより得た情報を元に構成しておりますが誤りなど御座いましたらご一報くだされば確認の上,訂正したいと思います。
その他のカロッツェリア&デザイナー達
BERTONE
:ベルトーネ http://www.bertone.it/
ジウジアーロ、ガンディーニを輩出した名門カロッツェリア
ベルトーネの破産手続き開始


Shirou Nakamura :中村史郎

1974年、武蔵野美術大学卒業、いすゞ自動車入社。81年にアメリカのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインに派遣留学。GMデザインアドバンススタジオやいすゞのヨーロッパやアメリカ法人に勤務するなど国際経験豊か。
デザインで評価された『ビークロス』は、当時中村が監督していたイギリスのスタジオで生まれた。98年、デザインセンター部長に就任。
99年、ゴーン社長のもとでリバイバルプランを進める日産に移籍、日本の企業デザイナーで部長級の移籍はまれで話題となる。
2000年にデザイン本部長就任、01年から常務兼任。
イアン・S・カラム
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スコットランド生まれの48歳。79年にフォード入社。90年にTWRデザインに移り、DB7やヴァンテージ・コンセプト、V12ヴァンキッシュ、フォードピューマーなどをデザイン。
99年よりジャガー・デザイン、デザインディレクター。
Satoshi Wada:ワダ・サトシ 和田 智
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1961年生まれ。1984年に日産に入社。セフィーロ、初代プレセアのエクステリアを担当し、英国留学を経て。1998年夏にアウディに移籍。コンセプトカー、アバンティシモを手がける。
次期A6を担当。シニアデザイナー。
Olivier Boulay:オリビア・ブーレイ

フランス国籍。1982年イギリスのロイヤル・カレッジ・オブ・アート修士課程卒業。フランス、イタリア、ドイツ、日本の各企業でキャリアを積み、スバルでは2代目『レガシィ』をまとめた。92年からメルセデスベンツに在籍、日本の横浜に先行デザイン開発研究所を立ち上げる。『マイバッハ』のコンセプトデザインおよび量産デザインの開発を監督する。2001年に三菱自動車工業のデザイン本部長に就任、デザイン体制を見直すとともに新しい三菱車のデザイン・アイデンティティ作りに取り組んでいる。三菱自動車工業執行役員兼デザイン本部長。2004三菱自動車のリコール隠しの問題から親会社のダイムラークライスラーも見切りを付け資本、人材を引き戻すことに2004.10月三菱を離れる。
ルーク・ドンカーヴォルケ
ムルシエラゴデザインはジウジアーロの案を元にランボルギーニ・チェントロ・スティーレ(ランボルギーニのデザイン部門)で仕上げたもの。ガヤルドをデザインしたデザイナー。
(2005年12月1日付けプレスリリースより)
ランボルギーニ車のデザイン担当前任者であったルーク・ドンカーヴォルケは、セアットのデザイン担当責任者へと移り、デザイン面において「新セアット」イニシアチブを強化 してゆきます。9月のフランクフルト・モーターショーでガヤルド・スパイダーを発表したことで、ランボルギーニは4モデルのラインアップを完成させました。それらすべてのデ ザインをドンカーヴォルケが担当しています。
ハルム・ラガーイ(ポルシェはデザイン部“スタイルポルシェ)
『911』タイプ996や『ボクスター』のデザインを監督したラガーイは平成16年7月1日付けで引退。
ラガーイは1946年、オランダ生まれ。シムカなどを経て71年にポルシェに入り、『924』や911をデザインする。77年にフォードに移籍、ケルンスタジオのマネージャーになる。85年にはBMWの先行開発部門であるBMWテヒニク(テクニック)のチーフデザイナーに就任、『Z1』の開発を指揮する。
89年に再びポルシェに移籍、以来、スタイルポルシェを率い、自社や社外からの委託デザインを監督してきた。その間、96年に発売されたボクスターはポルシェの経営上での転機となった。911タイプ996、SUV『カイエン』、高性能『カレラGT』も彼の作品だ。
ミハエル・マウアー:“スタイルポルシェ”(前サーブ・チーフデザイナー兼GMヨーロッパ先行デザインセンター所長)
11月1日までにマウアーが就任する。マウアーは初代メルセデスベンツ『SLK』などのデザインで知られる。
マウアーは62年、ドイツ生まれ。86年にメルセデスベンツでキャリアをスタート、89年に初代SLKのデザインリーダーに任命され、2年後に市販。98年には横浜にある同社の日本先行デザインスタジオ所長に就任し、1年後にはグループ企業の『スマート』のチーフデザイナーに就任した。2000年にサーブに移籍、チーフデザイナーに就任、03年からはGMヨーロッパ先行デザインセンター所長も兼任していた
Frank Stephenson:フランク・ステフェンソン
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BMWミニのデザインは、BMWのカリフォルニア・スタジオとして機能しているデザインワークス社のアメリカ人デザイナーであった。
BMWでMINI(ミニ)を手掛け、2年前にフェラーリに移ったステフェンソン氏が、今後どんなデザインで世界を驚かせてくれるのか。(2005/1/7)
氏によると、フェラーリのデザイン追求はあくまで「美」であり、マセラッティにはそこに「エレガント」という要素が加わる。しかしデザインはあくまで伝統にもとづいており、多くのデザイナーが嫌う「レトロフィット」という言葉をステフェンソン氏はあえて誇りを持って使う、という。
土屋秋野
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生粋の日本人女性.。パサデナのアートスクールに通っていて、とにかくアメリカにいたいと思いアメリカの企業に就職した理由。クライスラーでは50数名のデザイナーのうち、女性は私を含めて5名です。デザイン部門の女性は私1人という時期もありました。クライスラーコンセプトカー「アキノ」をデザイン。
Art Center College of Design
世界的な評価を誇り、卒業生が信じられないほど活躍している。